• 小さな住宅から圧倒的ランドスケープデザインへ

    時系列が前後してしまうが、旅の思い出。 安藤忠雄展。 作品の規模が、小さな1軒の住宅から段々とランドスケープデザインの領域になり、展示室内に摩天楼が出現するわで模型が凄い事に。 そんな中、海外での講義で通訳を務めている方を交えたギャラリートークまで始まったもんだから、混雑っぷりが半端じゃなかった。 人の流れの滞留もあり、1つ1つをじっくり観るという訳にもいかず。 人波から逃れるように屋外展示へ。 大阪茨木の「光の教会」が、乃木坂に出現! コンクリート打ちっ放しの冷たい感触の中に、温かな光の十字架。 本展唯一の撮影可能エリアだった。 せめて自宅でゆっくり観たいと思い購入した図録集は、本人が描いた直筆のサイン&代表的な作品のスケッチ付きで、なんと1980円!! リーズナブル過ぎるぞ、いいのか?(^^;

  • 圧倒的な迫力とカラーセンス

    旅の思い出。 今回の上京は、この展覧会を鑑賞するためのもの。 しょっぱなから圧倒された。私は描き下ろし原画のサイズを簡単にA0判サイズ程度と高を括っていたら、とんでもない! 昨年4月に鑑賞したミュシャ展のスラヴ叙事詩に迫るスケール感。もちろん、実際の漫画の原稿はA4ケント紙なんだけど、描き下ろし最新原画(12枚連作)もあって、「うわぁ」と感嘆するのが精一杯。 荒木飛呂彦と言えば、好みが分かれる奇想天外なカラーセンス。誰かに共通していると思っていたら、エルザ・スキャパレリ。イタリアだ。コラボしたGUCCIもイタリアだし。 あと、制作風景のムービーも流されていて、神々しかった。エプロン姿が意外に可愛くて、クスッときた。 元職業絵描きのつぶやき。 ホルベインのカラーインクとGペン、どれだけ消費したのかな〜。 個人的には、ファッション誌SPURのカバー原画やGUCCIコラボの原画を観る事が出来て、大満足。開明墨汁の黒さ、ホワイトの厚み、何もかもが独特の擬音と共に迫ってきた。 創造力を刺激された展覧会だった。

  • 『世界遺産登録を目指して』縄文~1万年の美の鼓動 (2018年7月3日~9月2日)

    日本の縄文時代というのは、磨製石器を使ってはいるが金属は使っていないなどの理由で、新石器には分類されるが、未農耕社会であって、世界史的には特徴ある時代なんだそうである。これけっこう重要なポイントだと思うけれど、高校時代に学んだのだろうけれどとっくにどこかに置き忘れてきてしまった。 縄文時代の区分は、主に土偶を含む土器の形式によって6つの時代に分けられている。この一番最初の時代区分は1万5千年前後まで遡る。おおよそ、そこいら辺りからして、世界遺産登録申請が開始されたのだろうと考えている。実は私はけっこう世界遺産マニア。これが登録されれば、自動的に行ったところが拡張できるかも知れない期待感を持っている。 さて、実はそういいながら、白状すれば、表紙のパンフレットのコピーの有名な遮光器土偶が、国宝だとばかり思っていた。浅学のそしりは受けるものの、しかしそれでもなおみっともなく抵抗すれば、土偶といえば、なっんと言ってもこの遮光器土偶だ。たぶん中学校や高校の教科書にも出てきたと記憶している。誰が何言おうと、私にとってのThe土偶はこれだ。 今回第一会場は昔ながらの展示であまり感心しなかったが、第二会場は、渦巻き状になっており、しかも展示ケースが分離していたので、周りに人が集まることが可能で、多数を擁してもそう閲覧に支障が無かった。また火焔土器のコーナーでは、下からライトを当てたプラスチック板の上に載せていて、暗部が可能な限り少ない区する工夫も見られて好感が持てた。 ※展覧会前に見た本:「はじめての土偶」世界文化社と「ときめき縄文図鑑」山と渓谷社

  • 『日本における独特の発展』マジック・ランタン~光と影の映像史 (2018年8月14日~10月14日)

    『近年注目を集める、プロジェクション・マッピングやパブリック・ヴューイングなど、人々がひとつの映像を一緒に見るという行為は、いつ、どのように生まれ、我々の社会に定着するようになったのでしょうか。スクリーンや壁に映像を投影する「プロジェクション」という行為は、映画の発明よりはるか以前に、映写機やプロジェクターの原型にあたる「マジック・ランタン」という装置の発明により、世界中に広がりました。本展では映像の歴史を、プロジェクションの歴史という視点から見直し、さらに気鋭のアーティスト・小金沢健人の新作を紹介するなかで、マジック・ランタンの現代性に光を当てることを試みます。』とパンフの裏にある。 歴史から言うと、江戸後期と明治初期の二度の時代に日本にそれは渡ってきたという。そして、それが興業として、成立していった。 その昔、灯心で明かりを採っていた時代。フィルム部分はガラスに画を描いていた時代。その頃の話が面白かった。 今回はパンフの表面しか写真ありません。 いわば、投影の黎明期の話。残念なのは、その具体物が乏しかったことだ。 つい最近まで(今もそうなのかも)伝えてきた人々による実演映像が会場で流れるのは一カ所のみ。これがすこぶる面白い。 片手に余る台数の投影機(マジック・ランタン)を並べて、一つの画面を構成する。動くわけでは無いので、フィルムの一部を消して別の部分を生じさせるなどの仕掛けや、投影物を回転させる仕掛けなどをもって、物語を構成していく。時には、人物などの投影で、投影機自体を動かすことによって、人の歩みなどを表現もしたようだ。 安珍清姫の大鐘の場面、近づいた大蛇が一瞬のうちに大鐘に巻き付く仕掛けは見事だ。観客は中味そのものは分かっていての鑑賞だろうから、動きが想像を広げる役割を大いに果たしたことだろう。(直接的では無いが)これがやがて映画へとつながる。これらは、演じ手が語りも担った。無声映画が時代の、弁士という日本独特の世界を生み出す土壌にたぶんあったのだろう。 会場にあった西洋の興行師の姿は、マジックランタン一セットかそれに手回しのオルゴールと思える物をもって村々町々を回る姿だ。このような物を見ても、日本の独自発展の姿が浮かび上がる。 【期間限定情報】会期が重複している「夢のかけら」を鑑賞して、スタンプを集めるとTOP特製の消しゴムもらえます。

  • 『委ねられているようでもあり導かれているようでもあり』夢のかけら (2018年8月11日~11月4日)

    『TOPコレクションは、東京都写真美術館の収蔵作品を紹介する展覧会です。今年のテーマは「たのしむ、まなぶ」。夏から始まる第二期は、「作品」という名の夢のかけらを手がかりにして、自由で、新鮮な驚きのある作品体験へと観客の皆様を誘います。この展覧会は、大人と子供、さまざまな立場の人たちが見たものや感じたことを自由に語りあって、作品の見方を深めていく、そんな光景が自然と生まれてくることを目指しています。作品から読み取り、感じ取ることのできる数々の夢や想い、それから過去の記憶。想像力を働かせ、感覚をクリァにして、数々のイメージを体感し、その魅力を探してみて下さい。』と、パンフにある。 しかしこれも少し難しいところもある。なぜなら展覧会そのものが一つの二次的な作品だから。意図というものがないわけでもない。 というのも、ここのところなんどかTOPにシルバーデーをいいことに通っているが、作品群の中には、既知のモノもあるからだ。当然それらは、より深くもなり得るが、また初見でない分、夾雑物がつきまとう。新鮮さは無い。 表紙の写真はジャック・アンリ・ラルティーグと言う人の作品。超有名な写真家だが、彼がデビューしたのは69才の旅先でのこと。一瞬を切り取るという写真本来の基礎的機能を生かし切った作品を見た。そう速いシャッタースピードを得られなかったであろう時代に、見事に切り取っている。 一瞬を切り取るという意味では、鳩が豆鉄砲を食らっているような顔をしている貴婦人の写真。これは仕掛けた場面で、他にもにやついた男の写真などのセットもの。 魚をもって孫とおぼしき子供らと海から帰路に次ぐ漁民の写真は、沖縄の戦後を飾った山田實という人の作品。どうしても、これからいっぱい泡盛を楽しみに家路を急ぎでいるとしか思えない。 鹿の死体の写真は組写真。偶然だろうと思うが、まだ力尽きる前のまっさらな雪原が一枚目。提示した写真は喰い荒される前の2枚目かと。その後、肉食動物に食いちぎられ、微生物により分解され、骨だけになり、やがて秋の落ち葉で何事も無く雪を迎える直前までを撮ったもの。出来れば、次の雪まであと一歩と思うが、あえてしなかったのはのは、何故だろうか。

  • 『嗣治がfoujitaになった軌跡の展覧会』没後50年藤田嗣治展 (2018年7月31日~10月8日)

    藤田の作品鑑賞の経験のほとんどは、数度のポーラ美術館での鑑賞。それと、ランスにある夫妻が建てかつそこに眠る「シャぺル・ノートル=ダム・ド・ラ・ペ」を訪れた際の教会内部の作品が、強く記憶に残る。比較的多作の人だったと言うこともあろうし、また最後の妻がフランスに多くの絵画を寄贈していることもあるからだろう、作品は内外を問わず多数存在する。だから鑑賞機会は多い。 ポーラの経験は、ポーラの持っている作品の傾向によるものが大だろうが、乳白色の独特な世界の人という程の知識であった。 遺作とも言うべき教会内陣の記憶はややあやふやなところも正直あるが、もう閉館時間を過ぎていたにも関わらず、快く招いてくれた,管理人の優しさの印象が残っている。小さな礼拝堂だが、内部には紛れもなくfoujita世界で満ちあふれていた。 そして一番最近で強烈な記憶に残るのが、国立近代美術館で見た戦争画。強烈だった。しかし、戦争賛美者というかつての画壇のレッテルとはちがって、反戦の絵画なのか戦意高揚の絵画なのか、判じ得ない作品という印象だった。 さて、展覧会のポスターには、「私は世界に日本人として生きたいと願う」というキャッチコピーがある。この藤田の言葉と、ランスの教会に眠るfoujitaの間にあるモノは何なんだろうというのが、シルバーデーで無料でいけるという理由の次に、心動かされた動機だった。 何時ものことながら双眼鏡を持参したが、双眼鏡の本来の出番は黙示録の精密画など10点も無かった。 私がその意味で注目したのがサイン。サインの変遷を双眼鏡眺めるという、変な鑑賞を行った。 総じて言えば、若い学生の頃は「fujita」だった。それが最初の渡仏の頃から、短い時期「藤田嗣治」または「藤田」で、そこから「嗣治」に変化した。時に、「日本」を加えることも。最後の渡米渡仏の頃から「New York」や「Paris」と添えることもあったが、国名として「France」というのは無かった。 やがて、嗣治の書き添えが無くなり、単に「foujita」が展開された。 今回の作品郡から、私の見たところ、「嗣治」が無くなったのは、戦後許可された渡米前後からであった。 藤田嗣治の思いがそこにあったように感じた。 あとで知ったが、「私が日本を捨てたのではない。捨てられたのだ。」に、重いものを感じた。

  • 『ミケランジェロと理想の身体』

    空いていてゆっくり見られた。ミケランジェロ作品で来ているのは未完成作と内戦で被害を受けた修復作だが、どちらも迫力に圧倒される。展覧会は古代彫刻など理想の肉体を表現することへの追及の歴史を紹介していた。冒頭部分の古代プット―の彫刻が可愛かった。『エッシャー展』と同日の鑑賞。こちらのがずっとよかった。ミケランジェロすごい。