• ミラクル エッシャー展

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  • ターナー 風景の詩

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  • 『日本に福島原発事故博物館は出来るのか?』暗い思い

    お断り:人体展などもここで扱える範囲と考え、ここに掲載します。 ウクライナ・モルドバ・ベラルーシ等を周遊する旅行で「ウクライナ国立チェルノブイリ博物館」を訪れました。チェルノブイリの事故を後世に伝えるための博物館です。 この訪問時の日付は、2018年6月9日でした。 最初に訪問日時を書いたのには、訳があります。消防署を改装して博物館が開館したのは、「1992年4月26日」。事故が起きたのは、「1986年4月26日」。福島原発事故が起きた日は、「2011年3月11日」。あれから既に7年が経過しています。 福島原発事故を直視し、二度とこのような事故が起こらないと誓うための博物館が日本に出来ないのでしょう?もちろん1991年のウクライナ独立という体勢の転換を抜きにしては語れないとは思いますが、私はこの博物館を訪れて、その成立年に驚かされると共に、日本の厳しい現状、ある意味では自らが恥ずべき現状に、暗い思いをいたしました。 周遊旅行の限られた時間ではありましたが、所狭しと膨大な資料が並べられた館内展示には、圧倒されるものがありました。 そしてこの博物館のすごさは、日本語のガイディングレシーバーがあること。これは喜んで言っているのではありません。被爆国日本に対しての思いの表現だろうと思っています。また過去に福島展を開催したことに見られるように、この博物館の主張『文明と地球を危機にさらした科学技術と人間との共存はかけがえのないものであるということへの理解を促し、世界がチェルノブイリの教訓を忘れないよう、生活のあらゆる場面で事故の教訓を活かせるよう次世代に警告していきます』をまさに具現化しているとも思いました。 写真最初は入り口。二枚目は、放射能拡散の様子。写真の白い点辺りがチェルノブイリ。ベラルーシとの国境に近い。国境線は写真の白点の直ぐ上をほぼ真横に走る。ベラルーシは上部。チェルノブイリ原発事故の影響はむしろベラルーシに甚大な被害をもたらしたことが分かる。風の影響からだが、この教訓はスピーディーデータの隠蔽と言うことで、福島原発事故では生かされなかったらしい。第三の写真はその隠蔽の姿ともいうべき新聞記事。当時のウクライナの新聞で、事故はオレンジ部分で伝えられた。重大さが伝わってこない。最後の写真は我が国の原爆のコーナー。 なお、チェルノブイリへのツアーも行われているらしい。

  • 人体 -神秘への挑戦-

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  • ルドン -秘密の花園-

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  • 『回向院のしゃれたプレゼント』二日間だけの鳥居清長と隅田川の夏展 (2018年5月19日~20日)

    回向院の回向とは明暦の大火に由来する。爾来、回向院はストライクゾーンの広い寺であったらしい。鼠小僧の墓などもある。その弔われている一人に、鳥居清長がある。しかしながら、鳥居清長の墓は現在特定されていない。代わりに平成25年4月に鳥居清長碑が立てられている。 そして、『(建碑)以降、毎年鳥居清長法要と鳥居清長と彼の作品を広く人々に伝えていこうと「鳥居清長忌展覧会」を開催しております。』ということで、今回の『二日間だけの鳥居清長と隅田川の夏展 』が回向院念仏堂にて開催された。 私たちは、東京メトロのウオーキングイベントで後楽園から錦糸町まで歩いたついでに、一つお隣の両国駅近くの回向院を訪れた。歩いている最中浅草を通ったが、丁度三社祭のさなかで多くの法被姿の氏子を見たが、ここ両国では夏場所の最中で、若い力士が駅や道路に見受けられた。回向院近くでも同様だった。因みに現在の回向院脇(当時は回向院の寺域)で勧請相撲がかつて行われており、両国の相撲の発祥の地とも言える。 日本画の中で、浮世絵というのは、もっとも光に弱いものという。そのために、念仏道は暗幕で囲われていて、中の照明はかなり落とされていた。無料の展覧会だが、チラシはもとより、作品リストも備わっていた、小さいながらも本格的なものだった。 この度のテーマはタイトルにあるように、隅田川の納涼さまをえがいたもの。特に、「歌川貞秀の三都納涼図」が一挙公開されていること。その構図の大胆さと繊細さには驚かされた。写真は両国(この他に浪速、四条河原)。橋の上の米粒のようなものは、みな人の頭。スケジュールの合間の見学で、単眼鏡を持参しなかったのが悔やまれる細密さ。 鳥居清長の作品は12点ほどあった。その中で最近自身が訪れた三囲(みめぐり)神社を題材にした「三囲の神詣」が目に留まった。この神社は(と言うよりこの辺りは)水害にしばしば見舞われている。神社の鳥居と大川の土手との関係が直轄に描かれている。(現在の社殿はこの鳥居とは無関係な方向で立てられている。)どちらにせよ、大川を渡れば直ぐに詣でることが出来た神社だったのだろう。なお解説では、鳥居は当時上半分しか土手からは角度の関係か見えなかったのだそうだ。 ともかく、このような機会を与えてくれた回向院に感謝。 写真は、清長碑以外は、パンフレットから。