• 『一寸物足りなかった感じかな』クリムト展 (2019年3月26日~6月2日)

    私のクリムトの知識というと、接吻とウイーン分離派の旗手の一人というくらい。ウイーンに行ったが、「分離派会館」は城のような建物の上に載っかっている球体(月桂樹の葉で構成・・・通称「金のキャベツ」)をちらっと見ただけだった。まぁ、この時代(20年くらい前か)は今ほどに美術を見る気分でもなかったので、そのような一般的知識の中での存在でしかなかった。 ところが、今年はクリムトが沢山やってくる。その中でも、この展覧会は「過去最大級」を売りにしているので、東京都美術館の65歳以上無料開放日に出向いた。 展覧会の最初は、クリムトらの写真が並ぶ。自画像を制作しなかった?代替か。 最初に印象に残ったのは、姪ヘレーネのポートレート。6歳と言うが、顔立ちや胸の膨らみがその母への面影なのか、強調されている感じがした。(2番目の写真) さてクリムトと言えば、金。これが日本美術の影響だと、恥ずかしい話し始めて知った。 クリムト自身かなりの日本美術のコレクターだったらしい(証拠の写真もあった)。表紙はユディット1からだが、恍惚感はクラナッハのそれに通ずるものがある感じがした。 また接吻もそうだが、正方形に近いキャンバスを多用したのも、日本の屏風の影響を感じさせるとか。 東洋美術の影響を感じさせるというのが、3番絵の作品「オイゲニア・プリマフェージの肖像」。プリマフェージ夫妻はクリムトのパトロンであった人とのこと。晩年の作品。 最後は、分離派会館にかつて飾られ、ベートーベン・フリーズと名付けられた壁画の一部、 中央の壁「敵対する勢力」の部分。三人の女性は「淫欲・不貞・不節制」を表しているのだそう。この壁全体が今回レプリカで再現。感じとしては、会場の都合であろう、少し低い位置からの鑑賞。 さて、最後にこのクリムト展の感想。今回目玉の作品の来日を果たした点では、「最大級」なのだと思うけれど、クリムト作品の点数もそう多くはなく、少し物足り感じがしました。 なお今回の写真はすべてクリムト展のパンフレットから。

  • 『立体曼荼羅の世界にもう少し近づきたかった』国宝東寺~空海と仏像曼荼羅~ (2019年3月26日~6月2日)

    平成最後の日、東京国立博物館平成館に向かった。 平成から令和へ変わる祝賀行事関連で10連休になった今年のゴールデンウイーク中で、しかも日美直後で心配したが、混雑はしていたが、大混雑というものではなかった。 今回の特別展のタイトルは国宝東寺。東寺には81点の国宝があるという(日美)。タイトルは矛盾していない。 そして今回の目玉はやはり、立体曼荼羅。我々もルール違反かも知れないが、まずのその部屋(一番最後の展示室)に足を運んだ。 立体曼荼羅は、二次元の曼荼羅の世界を、三次元的に表して、より密教を庶民に分かりやすくしたものと言うことが出来るのだろう。しかしながら、それ故にその展示にいささか疑問が。大日如来が来なかったのは致し方のないこととは言え、東寺の実際の配置からはいささか配置を異にしていた。例えば五智如来。部屋の奥の長辺に大日如来の写真画像を中心に一列に並べられていた。本来は大日を中心にして4体の仏が衛星のように配置されているはず。 もちろん、縦横無尽に背面からも見ることを可能にしていたし、鑑賞者に配慮したそれなりのゆったりとしたスペースも確保されていたが、しかし立体曼荼羅を見る(感じる)という観点からは不十分だったように思う。解説も柱に多くは4体が一カ所の貼り付けられていて、参考にするのも不便だった。(写真2枚目は東寺講堂内の配置。赤★が今回非展示。) 文句を言わず、東寺に足を運べと言うことだろう。^ 今ひとつ分からなかったのは、光背が何故か多くの仏像で外されての展示だったこと。万が一のことを考えてのことかと思うが、少し悔やまれた。仏像を仏像史的にあるいは美術史的に見た場合に、特に疑問が残るのでは。 写真4枚目は「降三世明王立像」で、邪鬼のごとくになっているのはシバ神とその妻。wikiには、『降三世はサンスクリット語で、トライローキヤ・ヴィジャヤ(三界の勝利者 Trailokyavijaya)といい、正確には「三千世界の支配者シヴァを倒した勝利者」の意味。 』とある。宗教抗争の影が見て取れる。立体曼荼羅の部屋では一番興味深かった。 立体曼荼羅以外では、後七日御修法(ごしちにちみしほ)関連資料や空海から最澄に宛てた手紙などを興味深く見た。 写真1枚目はパンフから、2と4は東寺のウェブページから、3枚目はこの像だけ写真撮影が許容されていたので実写。

  • 『写真の技術は英軍艦と共に日本へ』写真の起源 英国 (2019年3月5日~5月6日)

    歴史的な経緯は不明だが、昨年の「長崎」に続いて、写真黎明期の記録展を東京都写真美術館では行っている。解説冒頭には『日本における写真文化のセンター的役割を担う東京都写真美術館では、毎春、初期写真に焦点を当てる展示を行っており、2019年は「写真の起源 英国」展を開催します。 写真の発明に関する研究は18世紀末から始まり、1839年に最初の技術が発表されることで写真の文化が幕を開けます。英国ではヴィクトリア文化に根ざす貴族社会において、研究が発展し、広く文化として波及します。 』と、この展示の意義を語っている。 今回得た知見は主に二つ。 第一は、写真の技術の伝搬は、比較的早い時期に日本にもたらされたということ。前述のように1839年に生まれた写真は、およそ50年後の1893年には、日本で写真展が開かれるまでに至っている。飛行機がない時代、欧州と日本という地理的に隔絶された場所で、Exhibition of Foreign Photograph が開かれたのは驚きだ。二番目の写真がそれにあたる。(因みに1862年のロンドン万博では写真のセクションがあったそうだ。また日本最古の写真は1854年。驚異。) 第二は、最初期から芸術的関心を持って撮られていたこと。黎明期の写真家の中には、元々は画家だった人がいたこと。これが写真の黎明期から、構図という概念が持ち込まれていたこと。写真の前に画家は「カメラ・ルシダ」というモノを使って絵を描いていた。そうしたものの一つが写真3番目で、「海辺の断崖にある洞窟」と名付けられ、暗い洞窟から見た外界が表現されている。この成果に飽き足らず、写真の発明につながって行く。 最後の写真は、ロジャー・フェントン《死の影の谷》。戦争の写真。1855年。日本での田原坂の激戦地の写真もそうだが、ここでも戦闘場面を撮影するにはカメラの性能が未だ未熟で、直後の写真。おまけにこの写真は、臨場感を出すために砲弾の数を増やしたとか? 写真はすべてウエブページから加工。

  • 『とつとつと大石氏が語りかける反戦詩』大石芳野写真展「戦禍の記憶」 (2019年3月23日~5月12日)

    ここにあるのは「戦禍」の記憶であって、直ちには「戦争」の記憶を意味しないと思う。 歴史年表的な時間の概念で言えば、戦時の写真は一枚も無い。しかしながら、必ずしも戦時写真では無いとも、言えない。なぜなら、写真に登場する人々にとっては、少なくともその時点で、そして多くは今もなお、戦争に直面しているからだ。 写真展ではあるが、写真それぞれにはタイトルでは無く、あるときはいささか長い、多くは短い説明が付いている。そして、その多くは、そこにある大石氏の言葉は、あまり抑揚も無く、感情を押し殺すようにとつとつとした感じで、耳に響いてくる。それがまた、強く心に響く感じがする。 逆に言えば、それがないと少し写真を理解ずるのが難しい。 二枚目の写真は、アウシュビッツを経験した医師。今も医者だが、いまなお医師として仕事をしているが、なおホロコーストの影を背負っている。対人的な面で障害があるらしい。そうした説明を「聞いて」作品を見ると、この医師のメガネの奥にある瞳が、この人の歴史を反映しているようにも思えてくる。 デチャニ修道院(コソボ)と言うところを訪れたことがある。ここは独兵だったと思うが、警備に当たっていた。写真すら、撮ることの通常は出来ない場所。だから、3枚目のコソボの写真は、これほどの切迫感は無いものの、今なお続く現実。他国の軍隊に守られて存続している宗教という現実は、宗教の絡む争いの異様さをいやが上にも感じさせた。少なくとも訪問時、デチャニ修道院も構成要素になっている「コソボの中世建造物群」の中には、修復や保存の手が差しのべられていないと思われるものすらあった。それは「復興がまだ...」と言うより、「争いが未だ…」と言う意味だ。 最後の写真の場所は、着物の地が見えることからして、日本。広島。彼女は両手でわずか5本しか動かない手で、お針子をして、一人で子供を育てたという。そういう解説を「聞く」と、なおさらに突きつけられるものを感じる。また被爆の影響だけでは無い、齢を重ねた姿をその指に感じると、この記録の貴重さも見えてくる。 写真はすべてパンフの画像から。 シルバーデーであったが、普段のその日の数倍の人々の姿があった。恵比寿駅からの通路にも、「写真の起源 英国」展の広告はあったものの、この写真展の告知は皆無だった。やはり、日曜美術館の影響力はすごいのだと、感じさせられた。

  • 『梅か?桜か? 今上野は桜が満開』東京国立博物館 博物館でお花見を (2019年3月12日~2019年4月7日)

    新しい年号は令和となった。 白文:于時初春令月氣淑風和梅披鏡前之粉蘭薫珮後之香(『万葉集』巻五の「梅花の歌三十二首 序文」) 書き下し文:時、初春の令月にして、氣淑く風和ぎ、梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後の香を薫す。(ニコニコ大百科より) ということで、古くは梅の方が「花」を代表していたようです。でも、今上野は桜満開! 桜の時期になると東京国立博物館では、「博物館でお花見を」という企画をしています。最近では、「美術館でクリスマス」なんて企画もされるようになりました。スタンプを集めると缶バッジがもらえます。今年は西暦の数字が入った缶バッジが例年レアものだったので肝心の花見時期にはなくなっていたのを改善して、多めに作ったようで、私たちも無事にゲットできました。初めて。 さて幾つか作品を見ましたが、桜の作品ネタは尽きないようです。日本人と桜の関係は今や切っても切れないのだと思います。該当している作品を3つ紹介します。 写真2枚目は「色絵桜樹図皿」という鍋島焼きのもの。桜の花びら一つ一つが手書きされて、更に赤絵の具で輪郭線が描かれています。同じモノが5枚展示されておりました。数があると言うことは、何らかの取り皿のようなものだったのかも知れません。旬の筍の煮物など色合いからも合うかもと思いました。 写真3枚目は、「山鵲図目貫」(さんじゃくずめぬき)目貫とは本来は刀を柄に固定する金具で、時代が下って専ら固定する目釘と分離し、装飾具化されたものだそうだ。この大きさは見当32ミリ程度。あまり寄れなかったので、画像が粗いが、桜花を鳥が加えている。鳥は山鵲といい、小型のカラスで、足や口は赤いという。加えている花は3ミリ程度かと。超絶技巧。 最後の写真は、飯島光蛾(1820-1900)の「花下躍鯉」(かかやくり)と言う作品。不思議な絵。今にも花が咲く下枝に飛びつかんとする鯉。桜木は川端から斜めに出ているのだろうか?鯉は滝登りはするがそんなにジャンプする魚なのか。月の位置も微妙。咲いた桜の花の下から覗いている。画家の発想がすごいと言うべきか?風流のいいとこ取りと言うべきか? 最初の写真はパンフ。他は筆者(一部加工有り)。

  • 『江戸から東京へ 行楽地はどう変遷していったのか』北区飛鳥山博物館 明治*東京*名所 (2019年3月19日~2019年5月12日)

    平成も後一月ほど。都が東京に移って、初めての戦争の無かった年号になりそうな予感。もっとも某国からミサイルが一月以内に飛んでくれば、そうもいかないだろうけれど。 その東京の、江戸(末)期から明治大正にかけての、行楽地の変遷を絵図や写真などでたどった展覧会でした。 この日は日曜日と言うことも有り、まだかろうじて許容される程度の満開状況でしたが、もう朝から博物館のある飛鳥山は大混乱状況でした。11時頃帰り始めたのですが、山に登ってくる人をかき分けて下りるだけで大変でした。その中ふらふらしていると、「観覧無料」の看板が。無料に弱い我々は吸い込まれるように、北区飛鳥山博物館に入っていったのでした。 ところで、吉宗の時代に植えられた桜は、明治を迎える頃にはかなり本数も少なくなっていたらしい。それでも明治6年には幾つか後と一緒に公園に指定をされている。その後植樹なども行われ、今日もなお桜の名所の名誉を保っている。写真3枚目は三代目歌川広重が明治十年前後に出した東京名所の中の『飛鳥山桜盛』と言う作品。写真4枚目はもうすこし時代が下って昭和4年の、定方塊石『飛鳥山の桜と富士』と言う作品。まだまだこの時代は着物が主流であったことも分かる。この時代は富士も筑波も飛鳥山から見ることが出来たと言うことらしい。 この他飛鳥山関係の展示では、王子製紙の前身の工場とおもわれるものが含まれるものもありました。 かように、飛鳥山は江戸期から明治或いはそれ以降に引き継がれた名所でしたが、もちろん明治期に新たに名所になったところもありますが、また消えていった名所(例えば猿若町などは明治初年までの反映だった)もあったと言うことです。解説では、それが時代が求めている名所なのだというような趣旨の解説がありました。 それにして、北区は素晴らしい施設を持っていると、過日の府中市美術館共々うらやましい思いを抱いて家路につきました。 なお写真は、1枚目はパンフから、その他は筆者。

  • 『金子信久氏のワイドな知識や人脈が感じられた』府中市美術館 へそまがり日本美術 (2019年3月16日~2019年5月12日)

    微妙につながる・・・奇想の系譜展と。 『奇想の系譜展』は辻惟雄氏の同名の著書をベースに弟子の山下裕二氏が企画したもの。同じ表現を使えば、『へそまがり日本美術展 』は金子信久氏の『日本おとぼけ絵画史 』をベースにして著者自身の現在の勤務先である府中美術館の特別展として企画したもの。 奇想の系譜との繋がりでいえば、寒山拾得図。奇想の系譜展では前期に重文に指定されている狩野山雪の顔部分をアップした水墨画があった。今展では岸駒の寒山拾得図が展示されていた。両者とも結構キモイ.。というか、そもそも寒山拾得図でキモく無いものはあるのだろうか?と思う。 それに、後期展では奇想の系譜の展示が終わった長沢蘆雪の『なめくじ図』もやってくる。 かような点を考えるとき、『へそまがり』は微妙に『奇想』と同期している。専門は江戸時代絵画史(wiki)である金子信久氏の面目躍如なる展覧会とも言えなくも無い。この人すごい人。 何かと衝撃を受けた展覧会であった。その幾つかをあげる。 第一は、将軍が親子二代にわたって、まるで子供が描くような作品を残し、しかもそれを諸侯等に下賜していたと言う事実。将軍や殿様には羞恥というものが無かったのか? 第二には、ヘタウマと言えば、蛭子能収が浮かぶ。本当に蛭子能収の作品も展示されていた。いささか驚いた。 第三には、金子氏を中心にこの展覧会にかかわった人々の遊び心、変じて言えば美術館へ足を運んでもらいたいという強い思い、これを感じた。いろいろな絵を楽しむ仕掛け(ウエブページにも)があった。平日の朝早い時間ではあったが、多くの入場者があって、その思いは通じていると思った。府中市民は幸せだと思った。 第四には、二度目半額制度。後期展を同じ金額で見せるのは前々からおかしい!と思っていた。全取っ替えなら別だが、拝金主義のそしりを免れないと思う。こうした制度は他館でもやっているのかも知れないが、画期的と思った。 なお3枚目の写真は、歌川国芳の『荷宝蔵壁のむだ書』(3連作の1枚)。役者絵を禁止された時代の反骨精神の発露のようなもの?こうしたものも人気浮世絵師なので売れたのだろう。 パンフの写真は、図録制作チーム公式Twitter頁から。最後は金子信久著『日本おとぼけ絵画史 』の表紙。他はパンフから。

  • 『明治期の美人を創出した?岡田三郎助』ポーラ美術館 モダン美人誕生 (2018年9月30日~2019年3月30日)

    ポーラ美術館は何度も訪れている。以前はスタンプカードなどもあって、定期的に、企画展が変わると見に来るという感じできていたが、こちら側の事情でしばらく訪れることは無かった。そうしているうちにスタンプカードは無くなっていた。でも、その他はあまり変わらない感じで、慣れている分ホッとするものがある。ただ、ポーラ美術館ならではの江戸時代の化粧道具の展示などは、どこかに追いやられた感じではあり、少し内容の変化もあった。時期や時間帯とも密接に関係するとは思うが、入館者の少なさはここでも目立った。 今回の企画展のポスターの表紙を飾るのは、岡田三郎助『あやめの衣』(メイン写真)。ポーラが所有する作品なのでもう何度か見ている。おそらくは、「八橋」を題材にした着物。岡田は、『百貨店の仕事や日本初の美人コンテストにも携わっていた岡田は、女性のよそおいに敏感に反応し、新しい美人像を次々と生み出していきました。大きな瞳と物憂げな表情が特徴的な岡田の女性像は、百貨店のポスターや雑誌の表紙などを通じて広がり、「岡田調の美人」は人々の憧れの的となったのです。』と展覧会パンフに有り、当時のリーダー格であったらしい。二枚目の写真は、日本初の美人写真コンテスト?の商品がダイヤモンドであったのだけれど、そのポスターなのか『ダイヤモンドの女』と名付けられた作品。岡田は審査員(長?)もやっていたらしい。 同時に名画の時間という展覧会もやっていた。3番目の写真はそのポスター。 今回は久しぶりに、御庭も拝見した。以前どうだったか記憶に無いが、ポツポツと作品もあったが、見せると言うほど遊歩道から近くも無かったり、解説が特にあるわけでもなく、自然との共生?を目指しているのかとも思った。まだ早春で、園内の一部で工事も行われていて、木々が芽吹く頃には、もうすこし整備された状態になるのかも知れない。最後の写真はそのパンフから。 後日、実際に美術手帖の記事(https://bijutsutecho.com/magazine/news/headline/19542)で、そうした方向性があることを知った。

  • 『平松礼二の作品を中心とした町立湯河原美術館』開館20周年記念展示 (2018年3月~2019年3月)

    湯河原の旅館に3月はじめに二泊しました。その折、町立湯河原美術館を訪問する機会を得ました。 湯河原は東京に近く、その上温暖な気候に恵まれていたので、文人墨客に愛された土地だったようです。解説には、 『 町立湯河原美術館は、竹内栖鳳や安井曾太郎、三宅克己など湯河原にゆかりの作品を集める美術館。平成10年に老舗旅館を改装して「湯河原ゆかりの美術館」として開館しました。 平成18年10月、日本画壇の第一線で活躍する画家・平松礼二画伯の作品を展示する「平松礼二館」を新設し、収蔵品を展示する「常設館」と併せ、館名を「町立湯河原美術館」に変更してリニューアル・オープンしました。』 とあります。 作品の点数もかなりの数あって、一寸見に来たという感じでしたが、充実した2時間近くをここで過ごしました。来館者が宿泊客に比して少ない無いのは、少し残念な気がしました。 さて平松礼二ですが、個人的には一時期、月間「文藝春秋」誌の表紙を飾った作家だという認識と、その表紙に描かれてきた点描的なイメージを持っていました。 今回知ったのは、モネの庭などとの関係が深いことでした。あいにく冬なのでその姿は見ることは叶いませんでしたが、庭にはモネの庭から分けられた睡蓮が時期には咲くと言うことです。 今回知った知識の一つは、日本の岩絵の具に平松礼二は思い入れを持っていたようですが。この岩絵の具の色調の変化は、粒子の大きさに依拠すると言うこと。粒子を細かくすればそれだけ白みがかって来る特性があるようです。 当日は、矢部友衛の「人物画展」も行われており、農民などの戦争直後の肖像画等が幾つか展示されておりました。素朴で、貧しいながらもほのぼのとした感じが伝わる好感の持てるものもありました。 写真は、平松礼二「路・月あかり」(一部)・同「湯河原」(文藝春秋表紙用)併設された平松礼二のアトリエ風景・矢部友衛「頬被りの少女」・・・ともに頂いたパンフ類から。

  • 『師辻惟雄氏への山下裕二氏のオマージュとしての展覧会』奇想の系譜展その2 (2019年2月9日~2019年4月7日)

    奇想の系譜展に先月に引き続き行きました。後期作品を見るためです。こうした行動は、私としては珍しいです。と、格好のよい言い方をしましたが、何のことはありません・・・白状すれば、会期の中に二度シルバーデーが入っていたから。 先月(その1)でも書いたように、辻惟雄氏が『奇想の系譜』を表された時代に於いては、今回の6人は『奇想』だったわけですが、若冲見て「いいなぁ」と思った私にとって、「奇想」こそが日本画なのです。だから、今回はわくわくで二度も見に行きました。これは本当の話。 ところで、日美や直前の日に若冲クイズ特番が放送された影響か、当日は大混雑でした。前回よりも少し早い時間に行ったにもかかわらず、順番はその三倍以上も後の方でした。開門時には相当の長蛇の列になっておりました。今回私たちは12時前には東京都美術館を後にしましたが(前期で見た作品はさらっと飛ばしたので)、その時の待ち時間は40分でした。私もそうでしたが、何でも良いから、きっかけが大事だと思います。でも、今回の会場は比較的会話なども小さな声で、落ち着いて鑑賞が出来ました。 余談ですが、この日は上野動物園の開園記念日(無料公開日)とも重なり、上野には二つの列が早朝出来ておりました。 今回の目玉は、会期の後半に出品された、曾我蕭白『群仙図屏風(文化庁)』だと決めて見に行きました。これだけ有名な作品でも、重文。まだまだ一般的にはアウトローは『奇想』であることには変わりの無いということなんでしょうか。ちなみに、国宝の画家は岩佐又兵衛(『洛中洛外図屏風』)だけです。又兵衛は重文指定の作品も多く、8人の中では群を抜いています。 なお。今回もこのページの規格に従って3つの作品を選んびましたが、前回を含めて私のベスト6と言う訳では無く、後期出品作を中心に選んだ3作品です。とはいえ、やはり曾我蕭白のインパクト度は強かったのかも知れません。 メインの写真はパンフから。